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Posted by たまりば運営事務局. at

鳩山町での国分寺用瓦づくり体験(2)


ところで、「体験古代瓦づくり」の作業手順は概ね次のとおりだった。先ず3~4人で1グループとなり、一人2枚、4人だと8枚、平瓦づくりに取り組んだ。
① 直径9cm長さ45cmの粘土(円筒形 約5kg)3本を渡される。
  これをたたいて、30cm×40cm 厚み6cm~7cmのたたら(粘土板)をつくる。
  ○これがなかなかの力仕事だった。粘土 7.5kgで瓦1枚つくる勘定。
② これをスライスして厚み3cmの板2枚にする。(左右いずれか一方を固定し、切り糸を扇状に回転させて切断する)。
  ○なぜ、切り糸を真っ直ぐに手前へ引いて切断しないのか、理由は不明。
③ これを凸型の台上に乗せて、たたいて十分に締める。(幅35cm長さ40cm厚さ2.5cmにする)
④ 凹型の台に移し替え、はみ出している粘土を切り落とし、面取り、サインなどをした後、乾燥室に移す。・・・作業はここまで。この後は、乾燥,焼成し、11月4日(月・祝)の国分寺まつりの会場で鳩山町から国分寺市へ引き渡される。
ところで、往時できた瓦をどのようにして、鳩山から国分寺まで40kmを、運んだのだろうか?答えは、主として人坦(人が担いで運ぶ)だったとのこと。女瓦(4kg)×12枚=48kgを担いで運んだとのこと。
  


  • Posted by water. at 2013年09月17日23:13

    鳩山町での国分寺用瓦づくり体験(1)

    8月31日(土)、国分寺市のふるさと文化財課主催で開催された、東日本最大の瓦窯跡、埼玉県比企郡鳩山町を訪問、瓦窯跡の見学と、古代技法による瓦作りを体験する「武蔵国分寺の瓦生産地をめぐり、古代瓦を作る」バスツアーに参加した。
    午前8時に市役所を出発→バスの中で古代瓦、窯跡についてのレクチャー→石田遺跡(鳩山町農村公園内)見学・瓦作り→昼食→新沼窯跡見学・瓦作りという、ややハードなスケジュールだった。

    今回作成した瓦は、乾燥後農村公園内に造られた窯で焼成され、11月4日の国分寺まつりの会場に運ばれ、式典で引き渡される予定。

    ところで、武蔵国分寺で使用された瓦は、創建用および塔再建用、さらには修理用を含めると100万枚ほどの膨大な量であったと推定されている。これらの瓦を焼いた窯は、丘陵の斜面にトンネルを掘って築かれるのが一般的で、地下式登窯と呼ばれている。
    窯は、燃料の薪、材料の粘土、それに水が得られる丘陵地帯に築かれた。武蔵国内では窯が集中する地域が4か所あり、北から順に末野窯跡群(埼玉県大里郡寄居町)、南比企窯跡群(埼玉県比企郡)、東金子窯跡群(埼玉県入間市)、南多摩窯跡群(稲城市、八王子市、町田市)である。鳩山町窯跡郡は、南比企窯跡郡の中心的な窯跡と目されている。

      


  • Posted by water. at 2013年09月10日23:32

    江川太郎左衛門

    先日のブログに書いたとおり、「江川太郎左衛門」は江戸幕府の世襲代官であり、太郎左衛門は江川家代々の当主が名乗った名跡。従って「江川太郎左衛門」は単一の人物ではない。ただし、最も著名なのが,36代の英龍(号坦庵)。一般に江川太郎左衛門といえばこの人のことを指す。海防に強い問題意識を持ち、西洋砲術の普及に努め、反射炉を築いたり、お台場を築いたほか、種痘にも熱心に取り組み、パン(堅パン・・極めて固く、現在のパンとは趣が違う)を初めて焼いたことでも有名。ところで何故、韮山に反射炉?と漠たる疑問を持っていたのだが、代官としての管轄区域に、伊豆、相模の沿岸など江戸湾の入口にあたる海防上重要な地域が含まれていたことを知り、疑問は氷解した。激務に体調を崩し、反射炉の完成を見ることなく1855年55歳で没した。
    後を継いだのが、37代三男の英敏、この代で、反射炉は完成。農兵の育成にも努めたが1862年に24歳で夭折。38代が英龍の五男、秀武、初代韮山県令はこの人である。
    なお、35代英毅も文化人として名を残している。
      


  • Posted by water. at 2013年02月22日23:36

    江川太郎左衛門(1)

    江川太郎左衛門といえば、伊豆韮山の代官で、反射炉を築いた人物として教科書に載っており、それだけの認識だったのだが・・・。
    明治維新当時、現国分寺市の一部が韮山県に属した経緯を調べている中で、国分寺市と江川太郎左衛門との結びつきを初めて知るに至った。つまり、江川太郎左衛門は確かに伊豆韮山を本拠とした江戸幕府の世襲代官ではあったが、その支配地は伊豆の他、相模、駿河、武蔵などの天領(幕府の直轄地)5万4,000石(後26万石)に及んでいた。その結果明治維新時、現国分寺市のうち、野中新田六左衛門組、榎戸新田、平兵衞新田、中藤新田、上谷保新田は代官江川太郎左衛門の支配地だったため韮山県に属することになったのである。
    ちなみに、明治政府は維新時代官支配地をもとに府県を設置し、それまでの代官をそのまま県令(知事)に任命した。その後廃藩置県後の府県統合による韮山県の廃止に伴い、韮山県に属していた村々は神奈川県に編入されるに至った。  


  • Posted by water. at 2013年01月06日17:16

    伊豆の国市

    先ごろ、某テレビ番組で取り上げらているのを見て、初めて伊豆の国市の存在を知った。今注目を集めているのは、明日最終回を迎えるNHKの大河ドラマ”平清盛”に登場する源頼朝の配流の地、尼将軍北条政子との出会いの地である蛭ケ島(蛭ケ小島)があるからである。そのほか反射炉で有名な韮山など史跡に事欠かない地でもある。どのあたりかといえば伊豆長岡が中心地。すなわち、旧長岡町、韮山町、大仁町が合併して誕生した新しい市なのである。かつては江戸幕府の天領、世襲代官、江川太郎左衛門の支配地だった。  


  • Posted by water. at 2012年12月22日23:12

    国分寺めぐり(第4回):上野国分寺

    国分寺・名水と歴史的景観を守る会では、一昨年から、公募型バス旅行”諸国国分寺めぐり”を企画、実施している。
    既報のとおり、第1回(平成22年6月)が下総(市川市)、第2回(平成22年12月)が下野(下野市)、第3回(平成23年11月)が上総(市原市)そして今回、第4回(6月6日《木》)は上野国分寺を訪ねた。参加者は24名、中央道、圏央道、関越道を経由して、上野国分僧寺跡(高崎市)に到着。同所に設置されているガイダンス施設、「上野国分寺館」で、今回、同行解説をお願いした高井佳弘先生のお話を伺ったり、同施設の展示物を見学したりした後。同先生のご案内で、版築工法で一部復元されている伽藍の四辺を囲う築垣、復元されている金堂と七重塔の基壇など僧寺跡を見学した。同所は上野国のほゞ中央に位置し、国府跡(推定)にも近く、北西に榛名山、北東に赤城山、西に浅間山を望む景勝地であり、南に染谷川、北に牛池川が流れるなど、水にも恵まれている場所である。これまでの諸国国分寺めぐりを通じて、それぞれの国分寺の違いや共通点、聖武天皇の詔に言う好処のイメージがおぼろげながら浮かび上がってきたように思える。  


  • Posted by water. at 2012年08月28日23:28

    更級日記

    今なぜ「更級日記」かといえば、実は先日”国分寺めぐり”で上総国分寺(跡)(千葉県市原市)を訪れる機会があり、そこで話題になっていたからである。
    更級日記は言うまでもなく、蜻蛉日記、和泉式部日記などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一つであり、高校の古文でも、徒然草、枕草子、源氏物語などに次いでよく取り上げられる。
    作者、菅原孝標の女(むすめ)が平安時代の中頃に書いた作者13歳~52歳頃までの40年間の回想録である。その冒頭が、住み慣れた上総の自宅からの旅立ち、すなわち、上総介であった父菅原孝標が任を終え、京に戻るのに従っての上京の場面(方違えの後、下総の国に至る)である。
    上総の国府が現市原市であったところから、同地では、まち起しの観点から、作者の住まい(国司の邸宅:上総は大国で、国司には親王が任じられ、赴任しないため「介」が事実上の国司だった)の場所の特定についての論争があったり、菅原通りと命名されたり(道路の愛称)と大いに盛り上がっているのである。また、古代上総から都へは海上ルート(上総→相模)だったのが、平安時代には陸路(上総→下総→武蔵)に変わっていることなども改めて確認できるのも面白い。  


  • Posted by water. at 2012年01月05日00:31

    国分寺めぐり(2)

    今回は上総の国分寺(跡)を訪ねた。案内は市原市埋蔵文化財調査センター所長の田所 真先生にお願いした。専門的な話のほかに関連の話題にも触れていただき、いろいろな気づきがあった。
    都(畿内)に近い方が上(かみ)であることは承知していても、上総、下総の関係についてはこれまであまり気にも止めていなかったが・・・。当時上総は東海道に属しており(律令制のもとで五畿七道な地方行政区分だった)、相模から上総へのルートは海路であったことによる。ちなみに武蔵は東山道に属しており、その後東海道に所属変更(771年)になっている。確かに日本武尊の東征においても、相模から上総へは海路をとっており、その折暴風が起こり、船は漂流、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に入ることで、海が納まり無事岸に着いたとの記述がある(日本書紀)。
    それにしても、当地方の古墳群などから、3世紀~5世紀ごろの房総には大和王権に対抗する、大きな勢力があり、それが徐々にに大和王権の支配下に入っていったことが実感できる。東日本最古級と云われる神門(ごうど)5号墳、(出現期すなわち3世紀後半の築造) 王賜銘鉄剣(「王下賜」を含む文字が象嵌されている)が出土した稲荷台1号墳、(5世紀後半) 極めて純度の高い金製の鈴が出土したことで有名な金鈴塚古墳、(6世紀の末頃)をはじめとする多数の古墳群がこれを物語っている。  


  • Posted by water. at 2011年12月26日13:50

    国分寺めぐり

    「国分寺・名水と歴史的景観を守る会」では昨年から、公募型バス旅行”諸国国分寺めぐり”を企画、実施している。
    第1回は昨年の6月、下総国分寺(市川市)、第2回は12月に下野国分寺(下野市)、今回が第3回で、11月30日(水)上総国分寺(市原市)を訪ねた。言うまでもなく、国分寺は、天平13年(741年)僧寺と尼寺を国ごとに置くことを命じた聖武天皇の『国分寺建立の詔』に基づいて全国六十余か所に建立された。(当時全国には六八か国が置かれていた) もとより現存するものはなく、国分寺跡であるが、『詔』の命じている「好処」をどのようにしてクリアしているのか(立地条件)、国府との位置関係、寺域や伽藍地の規模にも大きな開きがある。ちなみに上総国分寺の寺域は広大で、特に尼寺は今のところ(判明している中で)諸国最大といわれている。塔(七重塔)の位置関係など伽藍配置にも違いがある。地元の武蔵国分寺との比較、整備保全のあり方など興趣は尽きない。毎回地元の研究者に案内、解説をお願いしているが、今回は、市原市埋蔵文化財調査センター長 田所 真さんにお願いし、素晴らしいお話をうかがうことができた。今後も引き続き年1~2回、日帰り圏の訪問を予定している。古代史に興味のある方にはお薦めである。  


  • Posted by water. at 2011年12月21日00:15

    国分寺薬師堂 開帳

     昨日、10月10日は、年に1度の薬師堂の開帳、ご本尊の国の重要文化財にも指定されている木造の薬師如来坐像(正面の厨子内に安置されている)が一般開帳の日。秋の一日、好天にも恵まれ多くの信者、参拝者で賑わいを見せた。
     薬師堂は現国分寺(真言宗豊山派)の境内(西方)にある堂宇で、市指定の有形文化財。階段を上がり、仁王門(市指定重宝)をくぐる右手に鐘楼、正面に落ち着いたたたずまいを見せる。現在の薬師堂は江戸の宝暦年間(1751年~1763年)に再建されたもの。堂内正面には「金光明四天王護国之寺」の掲額がある。ここに至る由来としては、1333年、新田義貞軍が幕府軍との緒戦に敗れ、敗走する際の焼討ちによって、武蔵国分寺が灰燼に帰した後、建武の功臣となった新田義貞が黄金300枚を寄進、それによって1335年(建武2年)武蔵国分寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられている。
     なお、薬師堂建立のベースは奈良時代に遡る「お薬師さま」に対する根強い信仰だったと思われる。ちなみに、真姿の池、玉造小町の伝承も薬師信仰に関わるもの。   


  • Posted by water. at 2011年10月11日23:01

    「青鞜」

    今年は、平塚らいちょう(らいてふ 1886~1971)の作った「青鞜」発刊から100年目にあたる。 「青鞜」は平塚らいちょう(当時25歳)ら日本女子大学同窓の若い女性達によって発行された、月刊の文芸誌。「青鞜」とは Blue Stockingsの訳で、19世紀にロンドンで始まった黒でない緑のストッキング、転じて趣味のいい婦人の意だという。 『元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。』で始まる平塚らいちょうの格調高い発刊の辞は有名である。創刊号を飾った与謝野晶子の詩「そぞろごと」は「山の動く日来る~」で始まる。これは1989年、”山は動いた”と土井たか子率いる社会党が”マドンナブーム”を起こした時に引用された。ところで「青鞜」は文学史的にはあまり大きな役割を果たさなかったが、創刊の辞をはじめ婦人問題を世に印象づけた意義は大きいと言われている。それにしてもあれからわずか100年、現代の女性たちは当時の女性たちには信じられないほどの権利と自由を手にしている。この現実をらいちょう達は草葉の陰からどう見ているのだろうか。  


  • Posted by water. at 2011年07月31日23:46

    多摩蘭坂(たまらん坂)3

    多摩蘭坂の名前の由来、昨今忌野清志郎さんの聖地になっていることについては以前触れた。ところで、多摩蘭坂下(国立寄り)から北に向かっている坂(この先は内藤橋に至る)をご存じだろうか?坂の名前は白明坂(しらみざか)という。坂の上り口のところに、国分寺市観光協会の設置した説明板があり、名前の由来が記されている。(出所は皇国地誌:明治政府が作成した民族歴史収集書類)これらによると、1333年、新田義貞が鎌倉攻めに際し、分倍河原に布陣する幕府軍を払暁急襲すべく夜間兵を進めてきたところ、このあたりで夜が白々と明け、大いに失望(一旦攻撃を断念)したところから、里人がこの坂を白明坂と呼ぶようになったとか。ロマンのある名前であり、私は大いに気に入っている。  


  • Posted by water. at 2011年07月15日23:27