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Posted by たまりば運営事務局. at

児島善三郎画伯(その2)


児島画伯は、昭和11年(1936年)春に代々木から現国分寺市泉町(多喜窪)に転居。昭和26年(1951年)荻窪に転居するまで、太平洋戦争を挟んで15年あまりを国分寺で過ごした。崖線上に建てた自宅は大変大きく、部屋数は30を数えたという。*今、その跡地の一角にはお孫さんの児島俊郎さんが住んでおられる。
見晴らしもよく、ここから眺めた四季折々の田園風景・・・多喜窪通りから南東、岩崎別荘方向を描いた『残雪』、野川や天野別荘の森が描かれている『青田』、アトリエから北方、中央線方向を描いた『東風』などなど沢山の作品が残されている。コンクリート三面張りに改修される前の野川やその両側に広がる水田風景など貴重な資料でもある。
  


  • Posted by water. at 2013年05月29日23:23

    児島善三郎画伯(その1)


      私たちが現在暮らしている国分寺市のまちのかたちが形成されたのは、昭和30年~40年(1955年~65年)くらいの間と思われる。言い換えると、のどかな田園風景の広がる農村地帯を一変させたのは、昭和30年以降の高度経済成長期(1955年~73年)の到来とともに訪れた急速な都市化の波。それまでの国分寺は、東京近郊の農村地帯であり別荘地帯。ちなみに江口別荘(後の岩崎別荘、現殿ケ谷戸庭園)ができたのが大正4年(1915年)、今村別荘(現日立中研)ができたのが大正7年(1918年)のこと。
      このような、都市化される前の田園風景をカンバスに残してくれたのが児島善三郎である、
    年譜によると、同画伯は明治26年(1893年)福岡市の生まれ、県立中学校修猷館を卒業* 画家を志望しつつ長崎医学専門学校薬学科に入学するも中退。画家を志して上京 駒込の染井、板橋などに住む。(染井・板橋時代)28歳の時に二科会展に初入選、代々木に転居。(代々木時代前期)32歳の時宿望の渡欧、パリにアトリエをかまえる。(留学時代)帰国後36歳の時二科会会員に。37歳で林武らと独立美術協会を創立(代々木時代後期)。昭和11年(1936年)43歳の時、国分寺市泉町(多喜窪)に転居。58歳で荻窪に移るまで、多くの作品を残している。・・・国分寺時代(前期:1936年~1945年 後期:1945年~1951年)この時代「自らの様式を確立し得た充実した時期」と言われている。(69歳荻窪で逝去) *中学3年の時、絵画同好会「パレット会」つくる 2年下に中村研一画伯、その弟の中村琢二画伯らもおり一緒に活動した。
       
      


  • Posted by water. at 2013年05月26日23:28

    野川の自然河川化に向けて(2)

     2月2日(土)に開催された第8回環境シンポジウムで、講師の吉村伸一さん(株式会社吉村伸一流域計画室 代表取締役/元横浜市職員)からは、実践例をもとにした「多自然川づくりにつ」についての講演、野川の自然河川化の促進に向けた貴重なアドバイスがあった。

    ○多自然川づくりとは
    治水とともに生物多様性や景観に配慮した河川整備を行う中で、人間が自然を全部つくってしまうのではなく、自然(川)の働きに委ねられるところは委ねる河川整備の方法。具体的には、川幅を広くとって川の自由度を高くする、水際は固めない、護岸は後方に置く、拡幅する場合も単純に両岸を拡幅するのではなく、可能であれば川岸の片方を残すといった方法。

    吉村さんによれば、“川は本来、水の流れに変化があったり(瀬や淵)、水際に植生があったりと複雑な構造をしている。それが川らしい川”。
    吉村さんが関わり先駆的事例として知られるいたち川(横浜市)では、改修されて河床や水際が単純な構造になってしまっていたものを、河川内に河原を再現、さらに上流区間にはいくつかの水辺拠点も整備、旧河道と新河道との間は公園にするなど、川らしさを取りもどすと同時に、川を軸とするまちづくりも実現した。

    そのほか北海道の真駒内川では、河岸は切土のままで護岸は後方においてあり、そのような控え護岸にすると、護岸の前に川の作用を受け止めるスペースができるので、治水上も有利になるとのこと。
     
    ○川の再生とまちづくり
    川づくりを契機に、豊かなまちの空間をつくっていく、川の中だけではなく、親水公園や川沿いの遊歩道の整備など、川が流れる空間全体を豊かにするという発想が重要。横浜市の和泉川では、広く土地を買って周辺にある緑地と川をつなぐ「川・まちづくりプラン」を立て、一部が実現したとのこと。
     
    ○野川の親水化整備の早期実現
    吉村さんからは、“野川の改修に合わせて、周辺の土地を活用して、緑地や公園として整備すべき。野川の所管は東京都だとしても、市や市民がこのようなプランを用意して、提案していくことが、野川の親水化整備の早期実現につながる。”とのアドバイスがあった。
    これからの野川を“どんな川にしたいのか”ゲリラ豪雨にも耐えられる安全な川、多様な生物の棲める川、子どもたちが水遊びのできる川、うるおいの景観・・・みんなで考え、実現に向けて力を合わせていきたいと思う。

      


  • Posted by water. at 2013年04月14日23:14

    野川の自然河川化に向けて(1)

    現在、国分寺市を流れる唯一の、貴重な河川である野川は、コンクリート三面張りの排水路状態になっている(鞍尾根橋から上流部分)。鞍尾根橋から下流、小金井市以降は親水化整備されており、対照的な姿を見せている。

    ○ところで野川とは
     野川は、(株)日立製作所中央研究所の大池を源流として、国分寺崖線(ハケ)の裾から湧出する湧水を集めながら、南東方向へ流れ、国分寺市、小金井市、三鷹市、調布市、狛江市を経て、世田谷区の二子玉川付近で多摩川に合流する、総延長20.2kmの1級河川。 なお、お鷹の道を流れる清水川(元町用水)は不動橋で野川に合流している。

    ○野川の歴史
    約3万年前、古多摩川が流路を南に変えていく中で、国分寺崖線の裾から湧出する湧水が、古多摩川の川道を流れるようになったのが野川の始まり。
    流域には旧石器時代から始まって、縄文、弥生時代の遺跡が多数あり、古い時代から人々の暮らしに関わりのあったことがうかがわれる。
     そんな野川の水環境を大きく変えたのは、昭和30年代以降の急速な都市化の進行と、それに追い討ちをかけたのが玉川上水の通水停止。生活排水の流入により水質は悪化、降雨時の雨水流入量の急増により度々洪水が起き、コンクリート三面張りへの改修が行われた。
     
    ○親水化整備(自然河川化)
    ところで、東京都には「野川流域河川整備計画」(平成21年12月)があり、その中で、最上流部(鞍尾根橋からJR中央線までの1,750m)については、治水および親水の観点から、老朽化の進んだ三面張り護岸の拡幅と複断面河道での整備が謳われている。
    具体的には、「川に親しめる空間の創出、生態系の連続性の確保、周辺地域との景観の調和などに配慮した川づくりを行う」とある。 早期実現に向けて市民の関心を高めていきたい。(続く)

      


  • Posted by water. at 2013年04月02日22:52

    野川にアユ遡上 ビッグニュース! 

    去る24日(日)、野川流域連絡会の第5期活動報告会に合わせて、「野川の散策」を実施した。 上流コースは、野川公園内にある自然観察センターから報告会の会場、調布市立柏野小学校までの5.4キロ余り。
    途中、いろいろ観察しながら、楽しく歩を進めたが、この度は大きな発見、アユの遡上の発見があった。 大澤橋の上流で釣りをしている人から、”先般アユを釣った人がいた”との情報があり、注意していたところ、琥珀橋の上から下流側を観ていた仲間から、”アユだ”との声が上がった。水生生物に詳しい仲間が間違いなく稚アユであることを確認した。数十尾の群れが3グループあまり確認された。おまけとして稚アユを狙ってか、ゆっくりと後を追う、ナマズ2匹も観察された。
    ところで遡上だとすれば、初めてのことではないか? かつて、野川が玉川上水の分水の流末だった当時(昭和40年以前)落ちアユは確認されているが・・。未確認ではあるが、先般の台風4号通過時の大雨で水かさが増した際に多摩川から 遡上したのではないかと考えられる。ちなみに今年多摩川では、昨年を上回る大量(1194万尾)の稚アユの遡上が報じられている。  


  • Posted by water. at 2012年06月29日21:30

    野川歩き(フィールドワーク)

    野川流域連絡会(野川流連)では、数年来、野川に関する「河川情報図」づくりを進めている。「河川情報図」とは、河川の整備や管理を行う際に必要となる河川環境に関する情報を適切に把握するため、河床の形態や植生の状況、生物の確認情報、生物の生息・生育環境などをわかりやすく図面上に整理したもの。今年度も、そのためのフィールドワークを野川の最上流部(国分寺市)から多摩川への合流部までを5回に分けて実施している。二巡目の今年は、去る10月12日(水)に3回目を実施した。今回は、中流域、細田橋から神明橋までを3時間強かけて歩いた。この時期、野川としては豊水期にあったってはいるが、今年は大型台風の影響もあってか、湧水の流入量も多く、例年以上に水は豊かだった。タモロコ、モツゴなど小魚も多数生息しており、その結果カルガモが全域で観察されたほか、コサギ、カワセミ、白セキレイ、アオサギさらには渡って来たばかりと思われるコガモ三羽にも会うことができた、。


      


  • Posted by water. at 2011年10月24日22:21

    とんぼ田んぼの稲刈り、脱穀

    野川第一・第二調節池地区自然再生全体構想(平成18年)に基づく自然再生事業の一環(自然再生の目標を達成するための施策の1つ、多様な水環境と景観の再生)として、野川第一調節池の中に、田んぼ(愛称:とんぼ田んぼ)が設けられている。そして田んぼの維持管理は、自然再生事業のモニタリング、維持管理のための市民団体”野川自然の会”が 担っている。そんなわけで”とんぼ田んぼ”は、事業の趣旨に沿って、冬季湛水、不耕起、有機無農薬といった農法が採用されており、平素は少数の熱心なメンバーによって運営されている。そんな田んぼで、先日多くの親子連れなど、一般参加者も交えての稲刈り(9/11)と脱穀(9/18)が行われた。稲刈りは、もちろんコンバインではなく昔ながらの鎌での手刈り、脱穀も足こぎ式の脱穀機、100年前に造られた唐箕などを使用、幸い好天にも恵まれ、気持ちの良い1日だった。11月には、収穫祭が行われる。また、ここでお知らせするので多くの皆さんの参加をお待ちしている。  


  • Posted by water. at 2011年09月28日00:08

    世田谷ダム

    近年、都内でも集中豪雨による浸水被害がしばしば発生している。平成17年9月4日の野川下流域の浸水被害もその一つ。世田谷区鎌田地区を中心に大きな爪痕を残した。それを契機に世田谷区では流域対策(雨水浸透や雨水貯留)に積極的に取り組んでいる。すなわち、豪雨対策では河川や下水道の整備だけでは間に合わず、大量の雨水を一時に流出(河川や下水へ流入)させないための対策が重要になる。そこで世田谷区では、仮に区内全世帯が300リットルの雨水タンク設置すると、総貯水量が約13万㎥と小型ダムに匹敵するところから、世田谷区全体をダムに見立てて、”みんなでつくろう世田谷ダム”をスローガンに雨水貯留作戦を大々的に進めつつある。国分寺市でも他人事ではない。世田谷に学び、ダム作戦を進めたい。  


  • Posted by water. at 2011年06月29日22:31

    雨水建築

    15日、野川流域連絡会の水環境分科会(第7回)が開催された。この中で座長の神谷博さんを講師に”雨水建築”をテーマ”に学習会が開かれた。概要は次のとおり
    (社)日本建築学会では目下、「雨水活用システム」の基準化を進めており、近くパブリックコメントを予定している。
    ○基準化の背景  地球温暖化に伴う気候変動の影響により、雨の降り方が不安定になり、ゲリラ豪雨や渇水への対策が緊急の課題になっている。雨水の対策はこれまで河川や下水道、すなわち土木が担い。建築は敷地から早く雨水を排除することを旨としてきた。しかるに、1時間100㎜を超す豪雨が降るようになってくると、土木だけでは追いつかない状況になってきた。そこで建築も雨水を制御し、活用することが期待されることになった。

    ○雨水(活用)建築 
    そこで、建築としては、大きな水循環の中で、雨水を「かりる」「かえす」という理念のもとに、できる限り雨を集め、保ち、水質を整える、つまり雨をゆっくり流し、有効に使い、楽しむことのできする建築…貯留、浸透、蒸発散の設備、しくみを建築の中に取り入れようというもの。  


  • Posted by water. at 2011年02月18日23:56

    流量調査

    野川流域連絡会(なっとく部会)では、その活動目標の一つである「なっとく流量の設定」に向けて、2か月に1度野川の流量調査を上流から下流まで、委員が手分けして行っている。そこで、われら国分寺チーム3人は、昨日実施した。午後3時、最上流部の真姿の池下の元町用水から始め。、緑橋、鞍尾根橋と3か所で行った。  


  • Posted by water. at 2011年02月11日22:55