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Posted by たまりば運営事務局. at

国分寺めぐり(2)

今回は上総の国分寺(跡)を訪ねた。案内は市原市埋蔵文化財調査センター所長の田所 真先生にお願いした。専門的な話のほかに関連の話題にも触れていただき、いろいろな気づきがあった。
都(畿内)に近い方が上(かみ)であることは承知していても、上総、下総の関係についてはこれまであまり気にも止めていなかったが・・・。当時上総は東海道に属しており(律令制のもとで五畿七道な地方行政区分だった)、相模から上総へのルートは海路であったことによる。ちなみに武蔵は東山道に属しており、その後東海道に所属変更(771年)になっている。確かに日本武尊の東征においても、相模から上総へは海路をとっており、その折暴風が起こり、船は漂流、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に入ることで、海が納まり無事岸に着いたとの記述がある(日本書紀)。
それにしても、当地方の古墳群などから、3世紀~5世紀ごろの房総には大和王権に対抗する、大きな勢力があり、それが徐々にに大和王権の支配下に入っていったことが実感できる。東日本最古級と云われる神門(ごうど)5号墳、(出現期すなわち3世紀後半の築造) 王賜銘鉄剣(「王下賜」を含む文字が象嵌されている)が出土した稲荷台1号墳、(5世紀後半) 極めて純度の高い金製の鈴が出土したことで有名な金鈴塚古墳、(6世紀の末頃)をはじめとする多数の古墳群がこれを物語っている。  


  • Posted by water. at 2011年12月26日13:50

    国分寺めぐり

    「国分寺・名水と歴史的景観を守る会」では昨年から、公募型バス旅行”諸国国分寺めぐり”を企画、実施している。
    第1回は昨年の6月、下総国分寺(市川市)、第2回は12月に下野国分寺(下野市)、今回が第3回で、11月30日(水)上総国分寺(市原市)を訪ねた。言うまでもなく、国分寺は、天平13年(741年)僧寺と尼寺を国ごとに置くことを命じた聖武天皇の『国分寺建立の詔』に基づいて全国六十余か所に建立された。(当時全国には六八か国が置かれていた) もとより現存するものはなく、国分寺跡であるが、『詔』の命じている「好処」をどのようにしてクリアしているのか(立地条件)、国府との位置関係、寺域や伽藍地の規模にも大きな開きがある。ちなみに上総国分寺の寺域は広大で、特に尼寺は今のところ(判明している中で)諸国最大といわれている。塔(七重塔)の位置関係など伽藍配置にも違いがある。地元の武蔵国分寺との比較、整備保全のあり方など興趣は尽きない。毎回地元の研究者に案内、解説をお願いしているが、今回は、市原市埋蔵文化財調査センター長 田所 真さんにお願いし、素晴らしいお話をうかがうことができた。今後も引き続き年1~2回、日帰り圏の訪問を予定している。古代史に興味のある方にはお薦めである。  


  • Posted by water. at 2011年12月21日00:15

    養老渓谷

    11月25日(金)、紅葉狩りに粟又(あわまた)の滝、養老渓谷(千葉県)を訪ねた。残念ながら、紅葉は今年大夫遅れており、まだまだといった感じだったが、房総の海浜部とはまた違った、山里の秋をそれなりに堪能できた。粟又の滝は、別名高滝、養老川が落差30m、長さ100m、岩肌を優雅に流れ落ちる名瀑。茨城の袋田の滝に少し似ている。養老渓谷は、その少し下流に位置しており、遊歩道も整備されており、飛び石伝いに何か所か川を渡ることができる。近くには、頼朝ゆかりの出世観音もある。ところで「養老」といえば、岐阜県の「養老」がよく知られているが、名前の由来は全く別。当方の由来は、ひざの裏を表す古語の「よほろ」。「よほろ」が屈曲の多い川の様子を表しているところからきているとか。現在の「養老」の字があてられたのは、江戸時代以降、それまでは、「用路川」「勇露川」などという字があてられていたという。是非紅葉真っ盛りにもう一度訪れたいところだ。  


  • Posted by water. at 2011年12月02日23:22