今回は上総の国分寺(跡)を訪ねた。案内は市原市埋蔵文化財調査センター所長の田所 真先生にお願いした。専門的な話のほかに関連の話題にも触れていただき、いろいろな気づきがあった。
都(畿内)に近い方が上(かみ)であることは承知していても、上総、下総の関係についてはこれまであまり気にも止めていなかったが・・・。当時上総は東海道に属しており(律令制のもとで五畿七道な地方行政区分だった)、相模から上総へのルートは海路であったことによる。ちなみに武蔵は東山道に属しており、その後東海道に所属変更(771年)になっている。確かに日本武尊の東征においても、相模から上総へは海路をとっており、その折暴風が起こり、船は漂流、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に入ることで、海が納まり無事岸に着いたとの記述がある(日本書紀)。
それにしても、当地方の古墳群などから、3世紀~5世紀ごろの房総には大和王権に対抗する、大きな勢力があり、それが徐々にに大和王権の支配下に入っていったことが実感できる。東日本最古級と云われる神門(ごうど)5号墳、(出現期すなわち3世紀後半の築造) 王賜銘鉄剣(「王下賜」を含む文字が象嵌されている)が出土した稲荷台1号墳、(5世紀後半) 極めて純度の高い金製の鈴が出土したことで有名な金鈴塚古墳、(6世紀の末頃)をはじめとする多数の古墳群がこれを物語っている。