先日のブログに書いたとおり、「江川太郎左衛門」は江戸幕府の世襲代官であり、太郎左衛門は江川家代々の当主が名乗った名跡。従って「江川太郎左衛門」は単一の人物ではない。ただし、最も著名なのが,36代の英龍(号坦庵)。一般に江川太郎左衛門といえばこの人のことを指す。海防に強い問題意識を持ち、西洋砲術の普及に努め、反射炉を築いたり、お台場を築いたほか、種痘にも熱心に取り組み、パン(堅パン・・極めて固く、現在のパンとは趣が違う)を初めて焼いたことでも有名。ところで何故、韮山に反射炉?と漠たる疑問を持っていたのだが、代官としての管轄区域に、伊豆、相模の沿岸など江戸湾の入口にあたる海防上重要な地域が含まれていたことを知り、疑問は氷解した。激務に体調を崩し、反射炉の完成を見ることなく1855年55歳で没した。
後を継いだのが、37代三男の英敏、この代で、反射炉は完成。農兵の育成にも努めたが1862年に24歳で夭折。38代が英龍の五男、秀武、初代韮山県令はこの人である。
なお、35代英毅も文化人として名を残している。