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児島善三郎画伯(その1)


  私たちが現在暮らしている国分寺市のまちのかたちが形成されたのは、昭和30年~40年(1955年~65年)くらいの間と思われる。言い換えると、のどかな田園風景の広がる農村地帯を一変させたのは、昭和30年以降の高度経済成長期(1955年~73年)の到来とともに訪れた急速な都市化の波。それまでの国分寺は、東京近郊の農村地帯であり別荘地帯。ちなみに江口別荘(後の岩崎別荘、現殿ケ谷戸庭園)ができたのが大正4年(1915年)、今村別荘(現日立中研)ができたのが大正7年(1918年)のこと。
  このような、都市化される前の田園風景をカンバスに残してくれたのが児島善三郎である、
年譜によると、同画伯は明治26年(1893年)福岡市の生まれ、県立中学校修猷館を卒業* 画家を志望しつつ長崎医学専門学校薬学科に入学するも中退。画家を志して上京 駒込の染井、板橋などに住む。(染井・板橋時代)28歳の時に二科会展に初入選、代々木に転居。(代々木時代前期)32歳の時宿望の渡欧、パリにアトリエをかまえる。(留学時代)帰国後36歳の時二科会会員に。37歳で林武らと独立美術協会を創立(代々木時代後期)。昭和11年(1936年)43歳の時、国分寺市泉町(多喜窪)に転居。58歳で荻窪に移るまで、多くの作品を残している。・・・国分寺時代(前期:1936年~1945年 後期:1945年~1951年)この時代「自らの様式を確立し得た充実した時期」と言われている。(69歳荻窪で逝去) *中学3年の時、絵画同好会「パレット会」つくる 2年下に中村研一画伯、その弟の中村琢二画伯らもおり一緒に活動した。
   


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    Posted by water. at 2013年05月26日23:28

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