姿見の池パート2

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2011年03月20日 23:34

恋ヶ窪は鎌倉街道沿いの宿場だったといわれている。(宿場跡は発見されてないが)そこにあったのが姿見の池で、その名は、遊女達が朝な夕な自分たちの姿を映し、身を整えていたことに由来するといわれている。また姿見の池には、鎌倉方の有力御家人畠山重忠と遊女夙妻太夫(あさづまだゆう)との悲恋物語の伝承がある。平家追討のため、重忠は恋仲となった夙妻太夫を残し西国に出陣。その後、重忠討ち死にとの偽の報せ、悲嘆にくれた太夫が姿見の池に身を投じたというもの。近くの東福寺には、太夫の死を憐れんで里人が植えた「一葉の松」の子孫がある。
池のあたりは野川の最上流部にあたり、湧水の水路があり恋ヶ窪用水につながっていたが、高度成長期には付近は埋め立てられ、廃材置き場になっていたといわれる。その後、平成10年~11年に整備(池の復活を含む)が行われ、さらに平成12年~13年にJR武蔵野線トンネル内で湧出する地下水の導水工事が行われ今日に至っている。

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