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Posted by たまりば運営事務局. at

環境シンポジウム

”国分寺市環境ひろば”と国分寺市の共催による「第7回環境シンポジウム」が開催されます。
日時:2月4日(土曜日) 午後1時30分開演
場所;国分寺Lホール(国分寺駅ビル8階) 参加費:無料

講演① 「省エネから地球1個分の暮らしへ~エコロジカル・フットプリントってなあに?~」

私たちの生活がどれだけ地球に負荷を与えているか、持続可能な社会のための「地球の限界」と「地球の恵みの分     配の公平性」を指し示すモノサシである「エコロジカル・フットプリント」について  「エコロジカル・フットプリント」の権威    泉 浩二 さんにやさしく解説していただきます。

    
講演② 「わが家は太陽光と燃料電池併用の発電所~導入後14年と5年の実績で分かったこと~」

太陽光パネルは屋根の形状などによって発電状況が異なります。太陽光発電は何年くらいで償却できるのか、専門家として、また自宅に実際に設置してみた経験から 末光 正忠 さんから具体的に説明していただきます。
    
    今回の東日本大震災は、エネルギー問題、ひいては私たちの生き方,暮らし方にも大きな課題を呈しました。大変
    時宜にかなったテーマではないでしょうか。講演の後、フロアディスカッションも予定されています。
    多くの皆さんの参加をお待ちしています。   


  • Posted by water. at 2012年01月27日00:03

    谷中七福神めぐり

    近年、七福神めぐりが盛んである。都内でもコースが30か所以上もあるという。まちおこしの一環として新規参入?も続々ある模様。
    そんなわけで今年は、谷中七福神をめぐってみた。JR田端駅をスタート。先ず、東覚寺の福禄寿。ここで色紙(といっても和紙、1000円)を購入、ご朱印をいただく(200円)、続いて、青雲寺の恵比寿、修性院の布袋尊、天王寺の毘沙門天、長安寺の寿老人、護国院の大黒天、そして最後が不忍池弁天堂の弁財天と順次お参りしながらご朱印をいただく。(それぞれ200円)この間寄り道をしなければ5キロ余り。もちろん弁財天から回ってもいい。
    当日は、あちこち寄り道をした。先ずは修性院のすぐ近くの西日暮里の富士見坂。
    都内には多くの富士見坂があるものの、かろうじて冨士山らしい富士山の見えるのはここだけ(ただし左の稜線は高層ビルに隠されている)になってしまったという貴重な富士見坂。幸い冨士を見るには最適の季節、天候。感動のひと時を過ごした。
      


  • Posted by water. at 2012年01月24日00:28

    谷中七福神めぐり

    近年、七福神めぐりが盛んである。都内でもコースが30か所以上もあるという。まちおこしの一環として新規参入?も続々ある模様。
    そんなわけで今年は、谷中七福神をめぐってみた。JR田端駅をスタート。先ず、東覚寺の福禄寿。ここで色紙(といっても和紙、1000円)を購入、ご朱印をいただく(200円)、続いて、青雲寺の恵比寿、修性院の布袋尊、天王寺の毘沙門天、長安寺の寿老人、護国院の大黒天、そして最後が不忍池弁天堂の弁財天と順次お参りしながらご朱印をいただく。(それぞれ200円)この間寄り道をしなければ5キロ余り。もちろん弁財天から回ってもいい。
    当日は、あちこち寄り道をした。先ずは修性院のすぐ近くの西日暮里の富士見坂。
    都内には多くの富士見坂があるものの、かろうじて冨士山らしい富士山の見えるのはここだけ(ただし左の稜線は高層ビルに隠されている)になってしまったという貴重な富士見坂。幸い冨士を見るには最適の季節、天候。感動のひと時を過ごした。
      


  • Posted by water. at 2012年01月24日00:27

    更級日記

    今なぜ「更級日記」かといえば、実は先日”国分寺めぐり”で上総国分寺(跡)(千葉県市原市)を訪れる機会があり、そこで話題になっていたからである。
    更級日記は言うまでもなく、蜻蛉日記、和泉式部日記などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一つであり、高校の古文でも、徒然草、枕草子、源氏物語などに次いでよく取り上げられる。
    作者、菅原孝標の女(むすめ)が平安時代の中頃に書いた作者13歳~52歳頃までの40年間の回想録である。その冒頭が、住み慣れた上総の自宅からの旅立ち、すなわち、上総介であった父菅原孝標が任を終え、京に戻るのに従っての上京の場面(方違えの後、下総の国に至る)である。
    上総の国府が現市原市であったところから、同地では、まち起しの観点から、作者の住まい(国司の邸宅:上総は大国で、国司には親王が任じられ、赴任しないため「介」が事実上の国司だった)の場所の特定についての論争があったり、菅原通りと命名されたり(道路の愛称)と大いに盛り上がっているのである。また、古代上総から都へは海上ルート(上総→相模)だったのが、平安時代には陸路(上総→下総→武蔵)に変わっていることなども改めて確認できるのも面白い。  


  • Posted by water. at 2012年01月05日00:31